草加せんべいの歴史的概説
第一節 米どころ草加
「草加」といえば「せんべい」「せんべい」といえば「草加」といわれるほどに、全国的に有名になった草加市。面積27.45平方キロメートル、人口20万人を超える大都市である。
草加市は、埼玉県の東南部に位置し、都心からわずか15キロメートル圏という場所に所在している。地形は、市域全体が沖積低地である中川低地上に含まれている。わずかに微高地が認められるものの、全域が水田地帯であった。
古くから草加地方は、「米どころ」といわれ、水田稲作農耕が発達してきた。このことが「草加せんべい」を発達させ、様々なせんべいを生み出している要因だといわれている。
「米どころ草加」の基礎を築いた草加市域の村々は、中世に開発されたところもあるが、主に慶長年間から正保年間にかけての近世に開けたところが多い。その理由として河川の開削や沼地の干拓に負うところが大きかったという。寛永5年(1628)に伝右川掘削され、万治3年(1660)には伊奈半十郎により葛西用水と八条用水が開削された。また、天和3年(1683)には綾瀬川が、享保13年(1728)には中川などの開削が進められ、用排水路の整備や洪水防止対策が施されたのである。その結果、多くの新田が開かれ、肥沃な穀倉地帯を形成するまでに発展してきたのである。
鎌倉時代の史書「吾妻鏡」には、鎌倉幕府が承久3年(1221)に「矢古宇郷」(現在の草加市域が中心である)を鎌倉の鶴岡八幡宮に所領として寄進したことが記されている。当時からこの地方は、かなりの穀倉地帯であったことがうかがえる。
「武蔵国郡村誌」は、明治8年に編さん事業が着手された郡村誌である。明治時代初期の耕作物や生業などの状況を知るうえでも貴重な資料である。同書には、草加市域の村々が、全村で稲を作付けているだけでなく、ほとんどの村で米を他地域へ「輸出」(換金作物として売買する)していると記録されている。
草加地方は、豊かな水田地帯であり、稲作農耕が発達していたため、天候の異変がないかぎり毎年かなりの余剰米が出ていたものと思われる。
また、明治21年刊行の「町村編成区域及資力並理由書」(『新編埼玉県史別編5』所収)の統計によると、現在の市域の東北にあたる旧川柳地区から南西にあたる旧谷塚地区にかけて、当時は水田が多く広がり、全体の平均でみると田65%、畑19%であった。統計上からも水田地帯であったことが解る。
草加地方は、低地であり古い時代から洪水に悩まされてきた地域であった。しかし、江戸時代からの用排水路の整備や洪水防止対策、また農家の努力により肥沃な穀倉地帯が形成され、米の生産量も飛躍的にのびた。
生産物の輸送には、江戸時代からの主用街道である奥州・日光街道が利用されたが、昭和初期まで綾瀬川や中川の舟運も盛んであった。特に舟運では、田畑の肥料となる下肥ばかりでなく、酒・醤油・油などの生活物資なども運びこまれてきた。様々な分野で江戸・東京と密接なつながりをもつようになった草加は、穀倉地帯という条件のもとで「米どころ」と呼ばれるようになった。
さて、「米どころ草加」に米以外の換金作物が栽培されるようになったのは、江戸時代後期からである。多くの農家で水田にハスやクワイなどを栽培し、大消費地「江戸」へ出荷するようになった。ハスやクワイは古くから正月をはじめとして祝い事の膳に欠かせない儀礼食として用いられており、今日でも多くの農家が生産している。しかし、なお草加地域は昭和30年代まで稲作農耕を専らとしていた地域であり、穀倉地帯には変わりがなかった。
ところが、昭和40年代からそれまで主要生産物の第一位を占めていた米は、野菜に首位を奪われたのである。昭和35年に耕地面積1418ヘクタール(生産価格3億9300万円)であったものが、昭和40年代に入ると半減した。国の農業政策の影響も受けて専業農家は急減したのである。
草加市は、昭和30年代にはいり、首都東京に隣接しているという立地条件から、工場の進出、人口の急増をもたらされた。その結果、稲作農耕を中心とした穀倉地帯である草加市は、工業都市・文教都市へと大きく変貌してきたのである。